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国特別史跡 埋木舎

埋木舎(うもれぎのや)は、彦根藩第十三代藩主で江戸幕府大老を務めた井伊直弼が、17歳から32歳までの十五年間を過ごした屋敷(藩公館)で、国指定の特別史跡です。直弼は十一代藩主井伊直中の十四男であり、嫡子ではなく庶子だったので、十二代藩主直亮の時代には彦根城の御殿を出て、城外のこの尾末町屋敷で質素な生活を送らねばなりませんでした。直弼は諸侯との養子縁組もかなわず、生涯をこの貧しい屋敷で過ごさねばならないと知った当時の心境を

 

世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は

 

と和歌に託しており、この頃からここを「埋木舎」と呼ぶようになりました。直弼はここで剣術や馬術の武芸に始まり政治・海外事情の学習、「禅」の修行、さらには茶道や和歌、謡曲や鼓など、また国学や楽焼や薬草等各種学問まで、文武両道の修養に励みましたが、この埋木舎での精進が、後の大老・井伊直弼の人格と器量を形成したといえます。

 

埋木舎の建築年代は不詳ですが、昭和の解体修理時の調査では宝暦九(1759)年の銘が入った瓦が見つかっており、少なくとも直弼居住の七十数年前に建てられたことがわかります。昭和の解体修理では、明治時代に地震で崩壊し、異なって再建された玄関周りを直弼時代の元の姿に復元しました。

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埋木舎 ©彦根市フィルムコミッション室
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埋木舎の建物の主な構造についてご説明しましょう。堀沿いの道路から屋敷を見て右手に長屋、左手に高塀があり、その中央に武家門があります。道路から二段ほどの石段をあがって門内に入れば、左右は白壁の中塀で囲まれ、庭への入り口と勝手口に入る「くぐり戸」を設けています。中庭には砂利が敷きつめてあり、その中央右寄りに井戸が一つありますが、この井戸の水は馬で外出し帰宅したときに、喉の乾いた馬に水をやるためのものと伝えられています。四畳敷の玄関正面にある板戸の左右には、斜めの廊下があり奥の部屋へと続いています。玄関の右は四畳半と四畳の二室の若党部屋になっています。主屋は東西にのびる長い棟を軸として、その奥に南棟がT字型にのび、さらにそれに平行して台所、水屋の棟が続いており、「π」の字型になっています。主棟は間口四間、奥行十一間半で、屋根は前面を切妻とし、後面は一部寄棟としています。玄関から左に連なる部屋は、来客応接のための「表座敷」です。「表書院」ともいい、主室には八畳に床の間があります。次の間も八畳で、二部屋通しの畳廊下があります。表座敷から見える庭の造りも大変質素で、隣家との高塀を背景に簡素な石組み、ありふれた庭木でこぢんまりとまとめています。

表座敷から奥座敷へ通じる角に有名な茶室「澍露軒」があります。「澍露軒」と名付けられた理由は、法華経の「甘露の法雨を澍(そそぎ)て、煩悩の焔を滅除す」の一文からとったものです。茶室は四畳半台目に一畳半の水屋をしつらえてあります。表座敷からは襖一本引、奥座敷の方からは開き戸で茶室に入るようになっており、二方から出入口があるため「にじり口」はありません。天井は六尺六寸の高さがある水平部分と屋根の傾きを利用した部分を合わせて構成されています。東は一間の中窓、南は台目の中窓と台目幅の壁床になっており、質素な印象です。西側は開放されて水屋の台目畳に続いています。水屋は台目畳に板の間が続き、奥に水屋流し、その上部に物入れの天袋がついているほか、茶室と水屋の袖の目かくしの壁が茶室全体をひきしめています。茶席からも水屋の様子が見通せる部屋の構造は、裏方の所作もまた緊張しておろそかにできない精神修養も含んでいて、直弼茶道の一刻一刻を大切にする好みが表れています。

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茶室を外側にぐるりとめぐると「奥座敷」に続きます。ここは直弼が日常居室として勉学した部屋で、「御居間」ともいいます。主室は八畳に床の間一間の質素な部屋で、次の間も八畳です。この二間と茶室との間に五畳の納戸があります。納戸と奥座敷の裏側には内廊下があり、奥の化粧の間や、大小の便所へと通じています。廊下の前は中庭に面していて、直弼の愛した萩の花が美しく咲き競うところでもあります。「御居間」の前庭の庭石も表座敷前に比べると立派につくられており、庭の景観も広く枯山水風の風情があり、部屋からは三方に庭を眺めることができます。奥座敷の前庭には、当時は直弼の愛した「柳」があったといいます。直弼は柳を好み、埋木舎を「柳王舎(やぎわのや)」とも呼んでいましたが、現在は玄関前の柳のみが残っています。

主棟から南西にのびている南棟には、四畳の中の間、八畳の仏間、八畳の座禅の間、次にお産の間が並んでいます。中の間、仏間、座禅の間の庭側には板張りの廊下が続き、そこからは前庭の木々も眺められます。その奥には脱衣の間と湯殿が続きますが、湯殿は板敷で、水はけをよくするため斜めに勾配がつけてあり、浴槽のほかは何もありません。この棟は建築当時のまま三百年近く経ていて損壊がひどく、昭和59年の雪害で崩れたため、解体修理工事を六年間(約2億円)かかって完成し、平成3年4月より埋木舎は一般公開されました。この他、台所・水屋の棟には、台所、水屋、女中部屋、六畳の間、中の間などがあり、ほかに長屋とそれに隣接した厩があります。井戸が邸内に七ケ所ほどあり、さらに小さな観音堂、稲荷の祠、武道場跡、楽焼作業所跡などもあり、直弼の趣向範囲の広さを裏付けています。以上が現在の埋木舎の概要です。

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埋木舎と大久保家

埋木舎は現在、大久保家が所有しています。大久保家はその祖は藤原忠平(摂政太政大臣関白)の後裔で宇津宮座主・宇津氏を経て初代は大久保新右衛門忠正(式部少輔)であります。徳川家康の祖父の代よりの旗本で天下のご意見番、大久保彦左衛門や小田原城主大久保忠隣の父忠世とは従兄弟筋にあたります。大久保忠正は今川義元に従っていた井伊肥後守が徳川側にトラバーユしようとして殺されたため、井伊家御子・万千代(彦根藩初代藩主・井伊直政)を忠正が御養育したご縁で、徳川家康の命により井伊直政を彦根藩に迎え、草創期に目付として活躍します。大久保家は代々彦根藩の目付、側役等藩主側近の重責を担ってきた家柄です。忠正より第十代の大久保小膳員好(かずよし)は、幕末に十二代藩主直亮、十三代直弼、十四代直憲の三代に仕え、幕末・直弼公の時代には側役として相州警備、領内巡検、京都守護さらに江戸詰等、藩主側近で仕え、桜田事変では一大事を江戸より彦根へ正使として伝え、水戸との戦を止めました。茶道のお相手役でもあり「宗保」を拝命します。小膳は藩の公用にて藩主の名代として江戸へ39回、京都へ13回、大阪へ7回の重責も務めました。桜田事変の後は、直弼の御子・直憲(なおのり)を御教育し、13歳の若さで十四代彦根藩主になられた直憲は大久保小膳を「親父」と呼び何でも相談され、小膳も常に側近でお仕えしました。皇女和宮様御婚儀の警備、直憲の天皇や将軍への拝謁時も同道御供、禁門の変や長州征伐や鳥羽伏見の戦の時も直憲の直前でお守りし、官軍に替った彦根藩は戊辰戦争にも参戦、天皇の江戸遷都の時も藩主とともに警護、江戸城で天皇を迎えました。さらに直憲の御婚儀(官軍総大将有栖川宮幟仁親王殿下第三女の糦宮(もりのみや)様との)の責任者でした。また維新政府に睨まれることを恐れ直弼時代の公文書総ての焼却命令に反して小膳は極秘に隠し、他の紙を燃やして文書を死守、また明治政府の命令で取壊し寸前の彦根城天守閣の保存について、時の土方(ひじかた)内務大臣公邸門前で一ヶ月も土下座して直訴、大隈卿の協力もえて、明治天皇の琵琶湖御幸の折の特別の「思召し」として特例で天守閣のみ残る奇跡が起りました。土方伯爵は「忠義動人・為大久保君」の額を贈られています。このように活躍した大久保小膳の忠節に対して、1871(明治4)年に直憲から藩庁を通じて埋木舎が寄贈されて以来、大久保家では「埋木舎は大久保家の子々孫々で守る」を家訓として、代々にわたり埋木舎の維持、保存活動に尽力して、現当主で5代になります。

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埋木舎を守る大久保家の皆さん

「埋木舎」保存に奮闘する小膳の子孫たち

※初代 大久保小膳(※埋木舎が大久保家所有になってからの初代、大久保家・忠正より10代、写真)

1871(明治4)年藩庁より多くの功績にて「埋木舎」を贈られる。これは大久保邸との交換(替屋敷)であり、決して無償譲渡ではなかった。1875(明治8)年には招魂社(後の護国神社)建設のため埋木舎の全敷地を提供するよう強硬に要求されたが、小膳はこれを拒否、直弼公当時の埋木舎とは直接関係のない部分(敷地の約半分)を寄付し、埋木舎を守った。更に1896(明治29)年の水害の際には、多額の修繕費を自弁している。また、後に小膳は明治政府に取り壊されようとしていた彦根城天守閣の保存を嘆願し、破壊から救ってもいることは前述している。その小膳も、1902(明治35)年に井伊直憲公が病気で亡くなると(維新後は小膳は井伊伯爵家執事として勤めていた)、それを追うように翌年1月14日に83歳で死去した。葬儀は地元の村民総出で行われる盛大なものだったという。葬儀は宗安寺、土葬は竜潭寺であった。

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二代 大久保員臣(12代)

 

1909(明治42)年の虎姫大地震で、埋木舎の母屋は傾斜し、長屋大門は破壊された。当主員臣は巨額の私費を投じ、玄関周辺部を一旦解体のうえ修復した。また長屋大門は復旧した。この時点で、この地域の武家屋敷で完全な形で残ったのは埋木舎だけとなっていた。二代目大久保員臣も、埋木舎保存に奮闘したのである。1937(昭和12)年、85歳で死去。

 

三代 大久保章彦(13代)

日中戦争が激しくなり、日本軍国主義が絶対のものになり始めた1939(昭和14)年頃、隣接している護国神社を軍部の圧力で拡張することとなり、埋木舎が目を付けられた。ある時埋木舎に憲兵数名が押し入り、土足で奥座敷まであがり「埋木舎を軍に提供できない奴は国賊である。戦車を出してぶっつぶしてやる!」と威圧したが、大久保章彦、定武、明文の三兄弟は切腹の白装束で憲兵らと対峙し、「我らの首を切ってから接収せよ!」と対応し、章彦は特高警察に不当拘束さえされても埋木舎を死守しようとした。その後章彦は京大時代より親交のあった時の首相・近衛文麿氏への協力要請や陸軍大臣・東条英機の説得に奮闘し、埋木舎接収の原案を破棄させた。自らの死をも覚悟して、またも埋木舎を守ったのである。1944(昭和19)年、61歳で死去。

 

四代 大久保定武(14代)

三代章彦の死去後は、弟の定武が埋木舎を継ぎ、経済的に困窮する中でも埋木舎を死守していた。そうした中、1952(昭和27)年に彦根城天守閣が国宝となり、同年に開始された井伊直弼の生涯を描いた新聞小説「花の生涯」が大ヒットした。1956(昭和31)年には彦根城一帯が国の特別史跡となり、埋木舎もその史跡に指定された。文部省からは7月19日付けで、埋木舎の特別史跡の指定に関する官報告示の知らせがあった。その後1959(昭和34)年には彦根市が埋木舎の買収計画を立てたが、定武、明文兄弟はこれに断固として反対し埋木舎を守り抜いた。1979(昭和54)年、83歳で死去。

 

五代 大久保治男(現当主・15代)

1984(昭和59)年、近江地方が豪雪に見舞われ、老朽化の著しかった埋木舎南棟が雪の重みで全崩壊したため、翌年から5年計画で文化財保護法に基づく文化財等保護整備事業として、埋木舎の全面解体修復工事を実施した。総工費は2億円、国や地方自治体からの補助もあったが、治男も2千万円を超える私費を投じた。これにより1990(平成2)年に埋木舎は井伊直弼公居住当時の状況に完全に復元された。東京で大学教授であった現当主は文化人井伊直弼の埋木舎時代の舎を現地で見学してもらい、偉人であった遺徳を偲ぶ縁として貢献したいという歴史教育を体験してもらうため「開かずの門」といわれていた埋木舎を、翌年4月より一般公開するに至ったのである。

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最近は入場者数が少々減少していますが、公開後40万人以上が現存している建物(文化財)を自らの目で見て、雰囲気を体験されて、ほとんど全員の方が若き日の直弼公の文武両道特に茶道、和歌、禅等の文化人的側面の修業に驚き、井伊大老の国際協調思想に共感し、戦争回避と植民地にならずに済んだ大老としての開国の決断に敬意を表し、安政の大獄と違勅の臣の教科書的直弼のイメージが、いかに薩長史観に基づく間違った教育であったかということに、皆が賛同して帰られるのであります。

皆さんも是非「埋木舎」を訪問され、文化人・井伊直弼の優れた成果を体験していただきたく思います。桜の春、紅葉の秋、埋木舎の門前よりは多門櫓が眼前に拡がり、彦根城・天守閣が真正面に眺められる武家屋敷「埋木舎」に、「たのもう!」と入られタイムスリップしていただければ、屋内より直弼が「お茶でも一服いかがかな」と現れてきそうな雰囲気を是非ご体験ください。

 

「百聞は一見にしかず」であり「埋木舎を見なければ直弼の真の姿は判らない」のであります。イギリスの詩人マーチン氏は井伊直弼の偉大さを褒めて、次の詩を贈っています。

 

    Little people see the Biwako                      小人は地元しか考えない

    Big people see Japan                            大人は日本しか見ない

    Great people see the world                      偉人は世界を見る

 

Great people 偉大な人、井伊直弼こそ世界を見据えた文化人であり、政治家・大老であったのです。(国際協調、平和思想の政治決断・開国が日本を救ったのであります。

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